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優西

Author:優西
20代♂ 学生

東京の片隅で大学生奔走中。

東アジアが大好きで
そっちのほうによく旅行します

現在台湾の大学に留学中(2010.09-)
日々考えてることとか書きます!

何かありましたらコメント欄に
残していただければ幸いです。

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アジア人のこころ⑦
祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず

ただ春の世の夢のごとし

たけき者も遂には滅びぬ

偏に風の前の塵に同じ

-----------------------------------------------

日本では有名な平家物語の冒頭。
「無常」という概念を用いて人の理を説明しています。

日本ではあまりにも溢れすぎていて、あまりぱっと理解しづらいかもしれませんが、
これを客観的に見てみたいと思います。

というのも、先日の話。

僕の中国語のクラスメートで、在台ドイツ人の欧州文学研究科の教授の方がいます。
その方は中国語を勉強する傍ら、東洋人の人生観について勉強したいと言うことで
まず手にしたのが、仏教における無常という考え方について書かれた本でした。

中国語のクラスの最終日、中国語で一人20分好きなテーマで口頭発表するという最終試験にて、
彼が取り上げたのはこの無常という概念でした。
しかし彼はその本を何度も読み返しても、結局無常という考え方が理解できなかったそうです。
というのも、欧州にはそのような考え方が存在しないのだとか。

彼曰く、「欧州の人は死の事について真剣に考える習慣がない。
東洋人は死と隣り合わせだと言う自覚が強いと思うよ。」という。

良く良く考えると、日本における哲学的作品の中には
そのような仏教、そして無常の概念を連想させるようなものが多い。

例えば手塚治虫の火の鳥では輪廻転生があった。
宮崎駿も、その作品の折々に無常の考え方を滲みだしていた。
(特にもののけ姫がそれに当たるのと考えるのですが、皆さんどうですか?)


そして、この無常という考え方は、何も日本のみではなく
中国や韓国、台湾を中心に東アジアの根本に存在している。
現に、クラスメートの韓国人や、友人の台湾人や中国人に「無常」と言ってもすぐに分かってくれた。
逆にABCの人の中は、分からない人もいた。


ということで、最近考えているのは、
東アジアは実は無常でつながっているんじゃないかな?ということ。






今日はここまでで。

もうちょっと考えが膨らんだらまた挑戦したいと思います。

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アジア人のこころ | 01:20:42 | トラックバック(0) | コメント(2)
アジア人のこころ⑥

「親日」台湾の幻想 (扶桑社新書)「親日」台湾の幻想 (扶桑社新書)
(2010/09/01)
酒井 亨

商品詳細を見る


やっとこの本にモノ申す時がやってきました。
個人的には満を持してという感じか。
完全に書評という感じになります。

まず、amazonから内容について簡単な説明があるので、それを参照したい。

台湾こそ『親日』『愛日』」は日本人の勝手な思いこみだ。我々日本人は、台湾人が戦前の日本統治を高く評価していると思っているが、それは大きな誤解である。実際の台湾人は、戦前の日本統治に対して強い批判や不満を持っている。日本統治をもう一度経験したいかと言われればほぼ100%の高齢者が否定するだろう。若者たちならば、即座に「いまの日本が良い。戦前の日本なら真っ平ごめんだ」という返事が返ってくる。「日本統治時代が良かった」と言う人のほとんどすべては、あくまで「戦後中国からやってきた国民党に比べて(・・・・・・・)良かった」という相対評価なのだ。
 日本のサブカルチャーが大好きな若者は、「哈日族」に代表されるが、台湾にはたくさんいる。彼らの日本好きはかなりエスカレートしており、高校の第2外国語に日本語を選択する生徒がかなり多かったり、アニメで独自に日本語を勉強して相当なレヴェルに達している若者も多い。日本全国津々浦々を旅する台湾人が出てきたり、これはもう「哈日族」というよりも「萌日族」といっても過言ではなかろう。
 そんな台湾に居住すること10年を超える著者が、「正しい」台湾人の日本観、さらにアジアやヨーロッパの庶民レヴェルで日本が大変高く評価されていることをレポートし、これから日本が世界でどのような立ち位置で外交を展開していけばいいのかを提言していく。

目次より
「親日」ではなく「媚日」を期待?/台湾人を無視した「親日論」/「あるがままの台湾」を見ていない日本人/日本による台湾統治の真実/日本人の視点で見てはいけない/二・二八事件がつくった「親日」/一貫性のない台湾の「反日」勢力/反日派の自己宣伝に利用される尖閣諸島問題/外省人だからといって「反日」とは限らない/日本語世代の正体/哈日族/若手世代の日本語人気/『篤姫』人気から日本史への関心も/日本津々浦々を旅する台湾人/台湾独立派増えず日本傾斜進む/もはや反日政権でも変えられない「親日」/台湾に中華人民共和国の影響力などない/「萌日族」/「平和日本」の国際的評価は高い/西欧植民地主義への反発としての親日/日本を代表する「ヘンタイ」?/好戦的な米中とは距離を/「中国軍事大国論」のウソ/伝統的アラブ重視路線/まずは近隣の台湾と韓国から同盟せよ/米国を疑い、ドイツに注せよ/中国にも憲法九条を! ほか

(http://www.amazon.co.jp/)

ちなみにアマゾンでは、この本の分類として以下のように区分されている。

本 > 新書 > 扶桑社新書
本 > 社会・政治 > 社会学 > 日本論
本 > 社会・政治 > 社会学 > 社会学概論

一つ疑問に思うことがある。


なぜこれが「日本論」なのか?



なぜ台湾の事について記述した本が日本論や社会学概論という区切りをされているのか。
まずそのことを念頭に置いたうえで考えていきたい。

まず内容について、大体の事は上に書いてあることと同じだが、
はじめに日本で取り上げられている「親日」台湾について、それが誤りであることを指摘する。

そして日本人の視点で見てはいけない、日本人の自己中心的な視点で「台湾」をつまみ食いしてはいけないとしたうえで、日本の植民地統治が評価されている側面と評価されていない側面の両方を直視し、「台湾人の目線に立って歴史を見ようとすること」が重要とする。

ここまでは私はおおむね賛成だ。日本人は台湾の歴史を日本人の視点で見ている事を自覚しなければならないと思うし、そして台湾人の立場というものも理解する努力が必要だと考える。



だが、ここからこの本が分からなくなる。


分からなくなると言うのは、筆者の意見が誤っているとか、事実誤認があるとかという問題ではない。
次に詳しく見ていく。

筆者はこの後で、では台湾の「親日」はどこからきているのかということで、
現代の日本について論じ始める。
「日本のマスコミはやたらと中国や南北朝鮮の反日的な動向ばかりを報じているので、世界には反日感情が蔓延しているような錯覚にとらわれがちだが、アジア諸国をはじめ世界には親日あるいは萌日的な人たちの方が多い。」
としたうえで、日本のサブカルチャーの流行や、日本の国際的評価を提示していく。

そして今の日本人はあまりにも内向きだとし、「「自虐史観」を非難する右派も、親日国家の存在を否定する左派も、いずれも世界の中で日本を捉えようと言う視野が欠けていて、日本という島国の殻に閉じこもっている」ことを日本人の欠点として挙げたうえで、日本がこれから取るべき方針として、国際社会に広がる日本に対する好感や信頼感を武器にした多角化路線を挙げる。そして台湾のような「アジアに広がる親日感情や日本への信頼感を認識し、それをばねにすべき」と述べる。

そして最終的に、筆者は以下のようにまとめる。
「親日・「萌日」でもある台湾は、日本がアジアと接する場合の格好の玄関口・窓口になるだろう。そしてそのためには、台湾と台湾人が日本をどのように見ているかをありのままに正確にとらえる必要があると考える。」


上の部分と、下の部分を良く比較してもらいたい。
上の結論で否定されている部分「日本人の自己中心的な視点で「台湾」をつまみ食いしてはいけない」と、下の結論手前の部分「アジアに広がる親日感情をバネにする」という部分がかぶっていないだろうか?

そのほかにも、論理的に非常に可笑しい部分が多く散見される。
(例えば、日本が標枯れているのは、歴史ではなくて、いまの平和と豊かさだから、謙虚に世界と接することが必要だと述べて、その次のページで、台湾人が日本人を評価しているのは、江戸時代から継承されている日本人の素養の部分だと言う。もうよくわからない。)

確かに、筆者の問題もあるかもしれない。
基本的に「10年間台湾に滞在した」筆者は、「私の経験から言えば、…」という記述スタイルを一貫しているために、amazonのようにこの本を分類するのには難がある。
しかし、だからと言ってこの本の評価が損なわれるわけではないと私は考えている。筆者が最後に述べている言葉、「国際舞台に出る上での試金石としての台湾・韓国」というのは非常に的を得ていると感じるし、内容はどうあれ、上部の結論は大いに賛成するところである。政治的な思想である右左の言説の盲点を見事に論破している。


だが、個人的には読んでいて「どんどんわからなくなる」。
ここで、この本が分からなくなってしまう理由を考えたい。
私は、単に筆者の能力の問題ではなくて、「このテーマで本を執筆することのむずかしさ」にあると考える。


はっきり言って、上部と下部は全く違うコンテクスト(文脈)なのだ。上部は歴史認識に関する記述。そして下部は特に90年代以降にはっきりしてきた、グローバリゼーションの中での日本の好感度の問題だ。だから、上部と下部をわけて出版すれば、この本はまったくもって問題なかった。むしろもっといい評価で世間的に知られることになるはずと思っている。しかし、この二つが結び付けられる。その二つを結びつけるものは何か。それは「親日」という言葉だ。

僕は先日新聞記事を読み漁っていて分かったことだが、「親日」の言葉の意味にはふたつの意味が混ざっている。それは、「日本統治を評価する」という文脈と、「日本のモノは良い」という文脈だ。まったく異なる二つのものが、同じ言葉で説明されてしまっている。僕はここに問題があると思っています。

確かに、筆者は「左右」の思想を論破することに成功した。しかし、「親日」という言葉が意味するものをあまり意識せずに、異なる二つのものを同じ次元で論じようとしたことが、このような「わかりにくさ」を生み出す原因となってしまったと私は考えています。

そして「親日」「反日」という言葉で捉える事から脱却できていない。それゆえに、台湾の外省人に対する位置づけが非常に曖昧になっている事や、国民党のコンテクストがあまりにも欠けている事等、台湾の現代史に関する(わずかながらの)誤認を生み出しています。筆者なりにその問題にも気づいているようで、筆者は独自の言葉「萌日」を用いて今の現象を分離しようとする試みを行っているものの、それが論述の方法から「親日」の中に包摂されているような形で出て来てしまったため、あまり異彩を放つような概念にまではなっていない。

僕としては筆者にケチをつけているんじゃなくて、どうして「親日」で捉えちゃったんだろう、という社会的な認識の方に疑問提起をしているわけです。

そしてここに、この本が「日本論」で区切られるゆえんがあると思う。

どうしてこういう現象が起きてしまったか、ということに関してはまだ分かっていません。相当に勉強しないと分からないことだと思うし、そして一筋縄にはいかない問題だと思っています。これは僕の今後の課題であり、一種僕のライフワークの一つとして位置付けています。

そして、本当に「試金石」として東アジアの中で台湾を位置付けるならば、如何にして「親日」「反日」という言葉の捉え方を逆転させていくか、(難しい言葉で言うと脱構築していくか)というものが重要になってくると思います。


だから、この本は以下の点+むやみに台湾人はこうだとか中国人はこうだと勝手に定義している部分に注意さえすれば、台湾を知る上で良い本であると言えます。だって事実誤認はありませんから。

――――――――――――――――――――――――――――

ということで、とてつもなく長い文章を書いて、この本をほめたのかほめていないのか良く分からない形で締めくくる形にはなりましたが、この本の率直な感想としては、こうして長い文章を書いて僕が提示した問題点もひっくるめて、「アジア」を考える上でいい題材になります。というかこのタイトルで本を執筆できる酒井さんは本当にすごいと思っています。



どんどん文章が長くなって、多分今回は歴代で最も長い文章となってしまいましたが、ここまでお付き合いいただいている方、どうもありがとうございます。それでは…。

アジア人のこころ | 02:44:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
アジア人のこころ⑤
長らく更新滞っておりました、すみません。

最近台湾に来てから、むしろ日本の書籍を読むようになってきました。
というのも、台湾の事が嫌いになったわけでもなく、かといって中国語の勉強を放棄したわけではなく、
台湾という物を考えるときに、どうしても日本を考えなければならない必要性が生じて来てしまうため、
それによって日本の近現代史の本を中心に読まないといけないわけでして…。

まず、一つ。
思想って面白いな…と思った一冊。


アジアは“アジア的”かアジアは“アジア的”か
(2006/04)
植村 邦彦

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タイトルにある通り、「アジア」はどのように認識されてきたのかというものを、
西洋の学者の価値観から、脱亜論そして竹内好、最後に最近言われている「アジア主義」まで
一冊にまとめた本。
正直にいえば、この本は、特に明治維新以降はあくまで日本人の視点・立場から描かれたものであり、
それが絶対的かつアジアに網羅的な解釈ではないという問題点
さらに、近代が脱亜論に固執しすぎていて、大正期以降の思想家の他の点からの解釈が存在していない等の問題点はありますが、
それでもこの本は読むに値する本だと思います。(しかも200Pぐらいで分かりやすい)

彼の疑問点出面白かったのは、「なぜ福沢諭吉が一万円札に印刷されているのか?」というもので
僕としては、「日清戦争・日露戦争以前の日本のナショナリズムは正常だった」とする司馬遼太郎を引き合いに出して、福沢諭吉の脱亜論に関して批判的姿勢で分析を取り組んでいるのは非常に興味深かった。

この脱亜論は現代にも通じていると感じます。
近代の歴史が脱亜論というテキストで解釈される限り、
現代でも日本はどこかで自分を「アジア」とは認識せず、
どこかで「アジアの盟主」という気持ちを抱いている。

この筆者の結論はあくまで、「ヨーロッパ」と比較した際の「アジア」のありようについて
どう考えるかということだったわけですが、
僕としてはむしろアジアをどうしていくかということに興味があるので、
勝手にモノ申すと、
脱亜論がある限り、日本はアジアを対等に見ることができないと言うことになります。
しかしそれを否定するわけではありません。なぜならそれは歴史だから。
なので以下にしてそのテクストの中で自らを脱構築していくかというのが非常に面白い課題になるわけです。


ちなみに筆者はあとがきで、竹内好の影響は大きいと述べていますが、
僕も正直に言うと、竹内好フリークスです(笑)

彼の思想というかアジアの捉え方というのは非常に今でも生きているような気がします。
興味がある方はぜひ一読を。

日本とアジア (ちくま学芸文庫)日本とアジア (ちくま学芸文庫)
(1993/11)
竹内 好

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もうひとつ、「ポストコロニアル」「帝国」等の分析概念で考えるのではなくて、
「脱亜論」で小熊英二の以下の二冊を読むと面白いかもしれません。

どうして日本人はアジアとかかわろうとしたのか
どうして日本人はアジアを包摂するとともに排除したのか
こうした疑問が以下の二冊を読んでいく中で頭をよぎる疑問ですが、
脱亜論のコンテクストで読むと、少し理解できるような気がします。

これはちょっとしたひらめきなので、何とも言えませんが…。


単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜
(1995/07)
小熊 英二

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「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
(1998/07)
小熊 英二

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そしてそして、
これを現代の「グローバリゼーション」に合わせて捉えてみると
「ポストコロニアル」とかよりももっとしっくりくる感じがします。
例えば下記のような本をこれで読むと多分頭が冴えてくるような気が…(笑)


トランスナショナル・ジャパン―アジアをつなぐポピュラー文化トランスナショナル・ジャパン―アジアをつなぐポピュラー文化
(2001/02)
岩渕 功一

商品詳細を見る


トランスナショナルジャパンについてはまた詳しく書きたいと思いますが、
これだけ本をお勧めして、何が言いたかったのかというと、
思想は大事。ということです(笑)

昔の思想はある意味では物事をあてはめて考える分析概念となります。
そうして古くも新しい視角を提供してくれる点で、本当にいい材料だと思います。


では久しぶりで気合い入れて長くなったので、この辺で。

アジア人のこころ | 03:10:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
アジア人のこころ④
(中国語が分かる方がいれば、まずこちらをご覧ください)


yahooのニュースはこちら。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101025-00001260-yom-ent

こんなニュースが日本を騒がしていませんか?
少なくとも、このニュースを報道している新聞社にも偏りが見られますが…。

台湾ではなく、中国台北の要求。
僕は正直、このニュースを見て大人げないなと思ってしまいました。


なんで、中国は台湾ではなく中国台北を要求するのか。

台湾と中国をめぐる問題は、現地では一般的に「両岸問題」と言われています。
それは、台湾の国際的地位をめぐって、
独立するか、中国と統一するかという二択を迫られているというものです。
まあ今の台湾の国際的地位というのは非常にあいまいなわけで。

一言で言いましょう。台湾は台湾です。中国ではありません。
それは、国際的な地位の問題ではないです。認識論です。
あくまでこう言っておきましょう。
僕が今まで会った「地理的な場所としての台湾に住む人」の中に
「自分は台湾人だ」と答えない人は誰一人としていません。
もちろん、台湾には色々な人がいます。
それは僕のような日本人であったり、
「新移民」と呼ばれる、東南アジアから出稼ぎにやってきた人たちであったり、
はたまた14の民族が認められている台湾原住民であったり…。
年輩の方には、これまた複雑で、中国大陸からやってきた人もいます。
要するに本当に複雑なんです。

ただ、こうしたことを中国の人は分かっているのか?
中国の人は、正直に言って台湾の事を良く知りません。
僕が2010年6月時点で中国に行った際に、台湾に関する情報というのは
サブカルチャー(特に俳優を中心とした芸能界)と、また台湾にかかわるごくわずかな書籍のみでした。
一般的な中国人の、台湾に関するイメージというのは乏しく、
僕が会った中でも一番すごかった人は(特に年を召した方はそう)
「台湾は憎き国民党に支配されている!
私達が解放してやらないといけないんだ!」
というものでした。

もちろん、台湾も中国の事については良くないステレオタイプが構築されている感はあります。
自分たちの特異性を説明するあまりに、彼らを仮想敵としてしまい、
欧米のメディアが掲げるステレオタイプに乗っかって
「中国は汚い卑劣な奴らが集まっている!、俺らは彼らとは違うんだ!」
という漠然としたイメージで毛嫌いしている感があるので。


ただこうした状況も改善は見られます。
特に今の博識な若い世代を中心にして、どんどん交流が深まっているように感じられます。

前回も言ったように中国人が台湾に行き来しやすくなってから、
様々な形で、台湾で中国人を見掛けるようになりました。


僕が期待するのはただ一つ、もっと中国の人に台湾を知ってもらいたい。
そして台湾の立場というものを理解してほしい。

だからこそ、僕がこのことについていらだちを隠せないのは、
自分の立場を相手に押し付けてしまっているところであり、
自分の立たされている状況を理解していないところであり、
そして、「台湾人に生まれた悲哀」を理解していないところにある。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――-
「台湾人に生まれた悲哀」
この言葉は、故・司馬遼太郎との対談で、元総統の李登輝が言った言葉だ。

何が悲哀なのか。
それはおそらく、台湾の曖昧な立場に端を発していると思う。

具体例をあげよう。
ある大学生向け台湾史の教科書に書いてあったこと。

アメリカに留学した台湾の学生が、留学生寮に住んでいた。
あるとき、寮で自分の国について紹介をみんなにするという催しが行われた。
その台湾の学生は、ひとしきり「中国大陸」の歴史を言った後、すぐに紹介を終えてしまった。
一人の別の留学生は、
「今君が言ったことは台湾じゃなくて中国の歴史だよね?台湾には歴史がないの?」と質問する。
そしてその学生はこう答えた。「台湾の歴史は知りません。」

これが一つのケースだ。
1980年代末期に起きた民主化が起きるまで、台湾人は台湾の歴史を教えてもらえなかったのだ。

そして、今、歴史が教えられても、文化がないということに台湾人は悩んでいる。
自分の文化はどこにあるのかというルーツ探しをひたすらにしているのだ。

また、別の例を言いたい。

日本に留学しに行った台湾人は、日本に憧れを抱いている。
来たい一心で日本にやってきたものの、
身分証明書を手にしたときに日本に対する落胆を始めるだろう。
書かれている国籍は「中国」なのだ。

というのも、日本は台湾を国として認めておらず、中国の一部としている。
だから台湾人は、台湾(=中華民国)のパスポートで入国しても、中国として認識されるのである。

そして留学先の大学に就いた台湾人。大学の寮で一緒に住むことになった中国人に
「あなたは台湾人?それとも中国人?」と突然質問される。
いきなりグレーな部分を聞かれて台湾人は気がめいる。

ざっと「台湾人に生まれた悲哀」を挙げてみたが
まあこちらに来てから、本当に数え切れないほど、台湾人の立場というものの脆さに
気づかされる日々なのです。


―――――――――――――――――――――――――

なぜ東アジアの関係はこうもぎくしゃくしているのか。
ここで知り合った韓国の友人に言わせれば
アジアにはforgiveness(許し)が足りないというわけです。

ただ僕は、相手の立場に立って考える視角が欠落してるんじゃないかと思います。
アジアに生きる人々が、アジア人のこころを理解するには一筋縄にはいかないようです。

僕はここでしなければならないこと。
まずは、台湾人の立場に立って考える。
アジア人のこころを知るためには、僕にとってまず一番初めの登竜門となりそうです。

アジア人のこころ | 01:38:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
アジア人のこころ③
台湾にいて、ある記事にふと目が行った。

「台灣頂尖生出走!」
(台湾の成績トップ学生、いってらっしゃい!)

という記事だ。
まあ大学生の俺にとってはまあ惹かれる記事だった。

記事の内容を簡単に説明すれば、

今台湾で成績優秀な高校生が、台湾のトップ大学である台湾大学を目指さずに、
なんと中国大陸の北京大学に入学するケースが増えて来ている、というものだ。

2008年中国大陸と台湾の間の入国の制限が緩和されて以降、
観光客や政界の人物など、様々な形で人の行き交いがなされている。
その中でも、「学生」の行き交いも起きてくる。

僕の(台湾の)大学にも、武漢から、そして上海から中国の留学生が来ている。
またこの大学から、中国大陸に留学する学生が増えて来ている。
僕としては是非ともこの交流が続いて、
身近なところから両岸関係の感情面が緩和されていってほしいと思っているのですが…

この記事で問題なのが、それが「台湾のエリート学生」だと言うこと。
その記事には、台湾よりも北京で学ぶ環境の方がすごい、なのだとか。



ここからは僕の見解。

中国・台湾ふたつの大学(台湾=政治大学・台湾大学? 中国=北京大学)に
行ったことがある僕から見ると、
やっぱり後者の方が圧倒的に勉強をしている印象を受ける。

確かに、この二つの大学の学生は本当に能力が突出している。
台湾大学では、大学から学び始めたばかりなのに日本語をベラベラ喋る学生に
幾度となく会ってきたし、
北京大学では彼らは一体いつ寝ているんだと言うくらいに
いついかなる時でも勉強している姿を見かけたものである。

ここまで来てじゃあどうなんだと言われれば
正直に言って決定的に違うのが、意識の差だろう。
北京大学の人たちは、自分たちこそが将来の中国を担うんだと言う意識が強い。
だから、授業でもなんかピリピリした感じがしていた。
とりわけ国家情勢がそうなっているからだろう。

ただ、台湾の学生はどうだろうか…
僕の考えでは、優秀な大学ですらも勉強している人としていない人の差が激しい気がするのだ。
学部の授業に出れば、
隣で平気で飯をがっつり食っている奴もいるし
スカイプをつなげて友人と話をしている人もいる。

深夜に図書館から寮に帰る時でさえも、
キャンパス内で大勢で集まってはしゃいでいる学生を何度見た事か。


先輩からある笑い話を聞いたことがある。
台湾の学生が中国大陸のある大学に留学した時の事。
「台湾の学生は朝五時に寝る。中国の学生は朝四時に起きる。」
この意味がわかりますでしょうか?
前者は遊び呆けて朝帰り、後者は朝からお勉強。
これを聞いた時は驚愕しました。


なぜこのような状況が起きているのか…
思うに中国の学生は、今の状況に対して非常に危機感を感じているのだ。
どういう危機感かというと、

これから中国は発展して、大国を目指していくのに、
国内は汚いしまだ何も整備されていない、それはどうにかしなければ

という意識だと感じている。

それが、
→自分たちがなんとかしなければ
という物につながっているのだろう。

一方、台湾はというと
中国との関係におしつぶされて、5年後ですらも先の見通しも経たないような状態にある。
そして進むべき目標が分からずに、暗中模索しているといった状態か。



さらに個人的な意見。

もっと台湾人に頑張ってほしい。
なぜなら、彼らの歴史的経験はアジアで必ず必要となる日が来るから。

日本と中国と東南アジアに挟まれた地理的条件の中で文化的にも多様な台湾が
それぞれの地域を結ぶ運河のような役割を果たす日がいつか来ると僕は信じているからだ。
だからこそ、台湾には自分のプレゼンスを強めていってほしい。
そして今度こそ台湾人の自分たちの力で、思想的にも経験的にも
台湾を作り上げてほしい。
それが東アジアをつなげるカギになると感じてやまないからだ。


なんて勝手な事を言っていますが、
こっちに来ると、「台湾人の視点」というものをどうしても考えてしまいます。

特に歴史を学んでいると、
それぞれの史実の解釈に関して、必ず立場の問題が含まれてくるのであり、
台湾人の視点というモノの重要性が浮き彫りになってくるんです。

ここにきてちょうど二カ月。
なんとなく台湾人の視点というものが見えてきました。
のこりの時間もがんばります。


―――――――――――――――――――――――


ところで、話は戻りますが、
日本の大学生はどうだろうか?(笑)

アジア人のこころ | 23:41:32 | トラックバック(0) | コメント(2)
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